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ブログ 美術館だより

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2011/09/18 (Sun) この季節には…
冬が近いかと思ったら
意外や意外
この厳しい残暑
美術館の涼やかさがまだ心地よく感じます

それでも
毎年同じ場所に生えてくる
洋種ヤマゴボウ




実を潰すと濃い赤紫の汁が滴り落ちます
子ども達の格好のままごと道具です

9月も半ばになり
今井が生きていれば
そろそろ気持ちは長崎だったはず

おくんちが始まる少し前には
毎年恒例の長崎での個展が始まりました
長崎の皆さんお元気でしょうか

今井亡き今も、随所に、今井の手によって飾られたままの姿で
今井が愛してやまなかった長崎の面影がが息づいています

長崎の凧『ハタ』


美術館の壁に


陳列棚に

他にも今井の寝室の壁にと、あちこちに飾られており
そのデザインを気に入っていたことがよくわかります
飾られている場所ごとに大きさもそれぞれ違いますよ
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今年5月17日、当館で行われた「今井繁三郎を語る会」にご出席いただいた美術批評家 六崎六剛氏のお話です。

今井先生とは文藝春秋画廊で出会いまして、こんなにいい絵描きがまだ日本に残っていたのか、そういうものを感じました。これは東(岩手)の萬鉄五郎先生か、それとも日本海の今井繁三郎か、東北の二人の偉大な作家なのです。

今井の絵を15年前から晩年の「聖少女」まで、作品をずっと見てきました。今井の作品で大変感動した点があります。それは何か。皆さんが生活してこられた奥羽の地の風土、即身成仏――この様なひとの悲しみを自分に受けて、人々の苦しみの為に捧げる――という精神が、今井繁三郎の中には存在していました。だから、ある意味で、今井の絵を見た瞬間に、僕は魂の叫びが響いてきた時もあります。「月山絵描き」と皆さん言われていますけれど、月山を描いているのではないのです。皆さんの心の拠り所としての月山を描いています。聖少女も、この少女の姿ではなく、この奥羽の風土が生んだ精神文化をここに描いているのです。ですから、月山を描こうが、聖少女を描こうが、全く同じものなのです。皆さんもそういった目で聖少女をご覧になって下さい。皆さんの持っている心の世界に限りなく入り込んでくるのは、今井繁三郎の絵だと思います。これは、この東北の文化がこれほど素晴らしいものがあるということです。この作家は、単に鶴岡の作家ではありません。日本を代表する作家なのです。

今井の辿ってきた色々な過去があり、評論家としても超一流でした。文化勲章をとられた山本丘人先生――僕の大好きな先生ですが――それを戦前の段階でこの山形の今井が見つけ出して、今井が編集した美術雑誌『美之國』時代に評論されています。松本俊介にしても、最初に取り上げたのは今井です。戦前の全美術界を対象としての美術誌は、『美之國』ひとつだけでした。その中に、当時の大作家も含め、色々な作家の生の文が沢山寄せてあります。これは大変貴重な美術雑誌だと思います。その中で、今井は沢山の展覧会を巡り歩き、当時の評論家達に左右されず、今井の眼で的確に沢山の評論をしています。ビジョンも描いています。それが戦後になって、評論家がさも自分達が初の発見者のように手柄話、エピソード文として、もてはやしています。今井の戦前・戦後にわたっての評論活動や、美術界低迷の中で色々な作家を動かして再建に努めたことは、日本美術史の中で重要な足跡を残している事実があるのです。それを再評価して後世に残すべきなのです。

それと、今井の画人としての評価は大変高い。僕は、萬鉄五郎先生と同等である、そう思います。今井は見かけ、建前は全て捨てています。本音の絵描きです。こういう偉人が山形県から出たことは、大変なことだと思います。

今井は、これから作家としても、評論家としても、日本の美術史に残していかなければいけない人です。


2007/06/27 (Wed) 休息時の回想

 十月一日から長崎での二十七回目の個展をして帰って来ました。長崎はくんち祭の季節です。長崎には昭和三十一年の二月にはじめて行ったのですが、先日、ある事情があって、昔かいたものを探して読んで記憶を新にしたのですが、どなたかに、なんの動機でいったのですかと、よくきかれることがあります。そのたびになにげなく、出稼ぎに行ったのさ、などと申し上げておりますが、その時は本当にせっぱつまった事情がたまっていて、飛び出して行ったのです。あの当時(然し本当は今でもそんな事情は変っていませんが)絵を売って生きるということは、(人間それぞれ生れついた性格もあって)私には全く大変なことでした。
 年のくれになると、あてにする目あてはなかったが、出口をさがすために、必ず上京したものです。なんの収穫もないまま、郊外の電車の駅に立っていると、ぞろぞろ乗客が降りて来ます。重い荷物をかかえた家族連れ、フラフープをかついだ父さん達、みんな正月を迎えるためのお荷物をかかえて、いそいそと降りてくるのです。帰る家路があるのです。待っていてくれる家族がいるのです。
 元旦まで家に辿りつくことが出来ずに、山形駅で除夜の鐘をストーブにかじりついたまま聞いていた大晦日の日もありました。またぎりぎりになって金が入り、新しいオーバーまで着込んで、鶴岡駅に十二月三十一日の朝に降りることの出来た年もありました。

4076d20d.jpg          






 長崎に関する記録を拾ってみたところ、最初は二月に行って、三ヶ月滞在して、また長崎に引き返し、長崎で自由美術に出す絵をかいて、東京にゆき、一寸家に帰ってまた長崎に行って、年の瀬を長崎で越しています。
 またこんな年もありました。私が長崎に滞留していた夏、私の双子が連れ立って長崎に遊びに来ました。私の常宿は金はなくとも二人は泊ることも、めしを食うことも出来るのですが、彼女達に小遣いを与える金はその時はなかったのです。或る日彼女達は山を越えた海岸の側に建つ水族館に遊びにゆきました。が帰りは遠い道のりを歩いて帰って来ました。親として切ないことでありました。不甲斐ないことでありました。わざわざ長崎まで、東京から来たというのに、外でうまい長崎の食べものを食べさせてあげることも出来なかったのです。それでも、そこがエカキの面白いところで、帰りにはギリギリでしたが、ちゃんと汽車賃を与えることができました。
 昭和三十八年の十月からパリーにゆきだし、そんなことで四年程長崎ゆきは中止になりましたが、それからは毎年(ギャラリーの開設されたこともあって)長崎で個展をつづけて参りました。二度長崎の美術館で回顧展もひらきました。二十五回展の時は多勢集って祝賀宴もひらいてくれました。
 エカキは一生懸命絵を描くしかありません。八十六才になって、私は死ぬのをやめることにしました。三十回目の記念展をやるために、実行委員会が美術館に申し込んでくれました。


     ――白甕社会報No.44(平成8年11月15日発行)より――

2007/06/18 (Mon) 副業は文筆家?

以前も今井は筆まめだったという記事を書きました。
絵筆と同じくらい、もしかしたらそれ以上、万年筆を握っていたのではないかと思うほど、よく机に向かって何かを書いていました。引き出しには原稿用紙、鞄にはハガキが常に入っていて、時間があるとよくペンを走らせていたものです。
広報に載せる記事や、知人の手紙への返礼等、書いていたものは様々ですが、中でも筆まめさを表しているのがこちら。
24e4d502.JPG自ら購入した書籍、戴いた書籍、足を運んだ展覧会の図録や画集の裏の方に書き込まれた覚書(日記)です。これを手に入れた経緯だったり、その日・その頃にあった出来事だったり。交友関係は勿論、家族の健康状態(!?)までわかり、今井亡き今、ある意味とても貴重な情報です。
そして、更に注目すべきは、書籍を包んでいる包装紙!図録が入っていたらしい袋を開いたもの、デパートやお菓子屋さんの包装紙等で、几帳面に(時には継ぎはぎだらけだったりしますが…)包んであります。
そんなまめな今井のアトリエが、整理整頓が行き届いていたかは、また別の話…。

2007/04/23 (Mon) 春のおもいで
15年前の今日、今井の妻キクが80歳の生涯を閉じました(キクについては後日またお話しします)。長年苦労をかけた妻のために、明るく賑やかなのが好きだった妻のために、今井が演出した告別式がアトリエで行われたのは、その数日後のことでした。

まずは祭壇作り。懇意にしている大工さんに依頼して、升目状に木枠を組み、その中にひとつひとつパンジーの苗ポットを入れました。その2~3畳位の大きさの花壇を斜めに設置して、真ん中に遺影を飾りました。
無宗教なので読経や焼香はなく、告別式ではキクの好きだった歌曲を流し、ご来席の皆さんにカーネーションの献花をしていただきました(キクは名に反して菊の花を好まなかったのです…)。祭壇の周りにも色とりどりの生花が飾られ、アトリエは花園のように。
その日は天気も穏やかで暖かく、庭にはツツジが咲き、枝垂れ桜も満開。沢山の花に包まれて、キクも喜んでいたことでしょう。

庭の花々が咲きほこるこの季節になると、あの穏やかな春の日と「ヴェニ・ヴェン」の歌声が蘇ります。
プロフィール
今井繁三郎美術収蔵館の管理人
美術収蔵館の周辺での出来事などをお便りしていきます。
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