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ブログ 美術館だより

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2007/06/27 (Wed) 休息時の回想

 十月一日から長崎での二十七回目の個展をして帰って来ました。長崎はくんち祭の季節です。長崎には昭和三十一年の二月にはじめて行ったのですが、先日、ある事情があって、昔かいたものを探して読んで記憶を新にしたのですが、どなたかに、なんの動機でいったのですかと、よくきかれることがあります。そのたびになにげなく、出稼ぎに行ったのさ、などと申し上げておりますが、その時は本当にせっぱつまった事情がたまっていて、飛び出して行ったのです。あの当時(然し本当は今でもそんな事情は変っていませんが)絵を売って生きるということは、(人間それぞれ生れついた性格もあって)私には全く大変なことでした。
 年のくれになると、あてにする目あてはなかったが、出口をさがすために、必ず上京したものです。なんの収穫もないまま、郊外の電車の駅に立っていると、ぞろぞろ乗客が降りて来ます。重い荷物をかかえた家族連れ、フラフープをかついだ父さん達、みんな正月を迎えるためのお荷物をかかえて、いそいそと降りてくるのです。帰る家路があるのです。待っていてくれる家族がいるのです。
 元旦まで家に辿りつくことが出来ずに、山形駅で除夜の鐘をストーブにかじりついたまま聞いていた大晦日の日もありました。またぎりぎりになって金が入り、新しいオーバーまで着込んで、鶴岡駅に十二月三十一日の朝に降りることの出来た年もありました。

4076d20d.jpg          






 長崎に関する記録を拾ってみたところ、最初は二月に行って、三ヶ月滞在して、また長崎に引き返し、長崎で自由美術に出す絵をかいて、東京にゆき、一寸家に帰ってまた長崎に行って、年の瀬を長崎で越しています。
 またこんな年もありました。私が長崎に滞留していた夏、私の双子が連れ立って長崎に遊びに来ました。私の常宿は金はなくとも二人は泊ることも、めしを食うことも出来るのですが、彼女達に小遣いを与える金はその時はなかったのです。或る日彼女達は山を越えた海岸の側に建つ水族館に遊びにゆきました。が帰りは遠い道のりを歩いて帰って来ました。親として切ないことでありました。不甲斐ないことでありました。わざわざ長崎まで、東京から来たというのに、外でうまい長崎の食べものを食べさせてあげることも出来なかったのです。それでも、そこがエカキの面白いところで、帰りにはギリギリでしたが、ちゃんと汽車賃を与えることができました。
 昭和三十八年の十月からパリーにゆきだし、そんなことで四年程長崎ゆきは中止になりましたが、それからは毎年(ギャラリーの開設されたこともあって)長崎で個展をつづけて参りました。二度長崎の美術館で回顧展もひらきました。二十五回展の時は多勢集って祝賀宴もひらいてくれました。
 エカキは一生懸命絵を描くしかありません。八十六才になって、私は死ぬのをやめることにしました。三十回目の記念展をやるために、実行委員会が美術館に申し込んでくれました。


     ――白甕社会報No.44(平成8年11月15日発行)より――

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